藍色の風 第27号目次
生涯人間発達学
内藤大助×亀田興毅のタイトルマッチをテレビで見始めたとき、亀田選手のパンチが内藤選手のそれよりかなり速いことに気づきました。結末が予想できて内藤選手が気の毒になり、2ラウンドが終了した時点で書斎へ戻りました。翌日に結果を知り、やはりと思いましたが、この試合を見て年齢には勝てなかったのだろうと思った人が多かったのではないでしょうか?
加齢によりスピードや持久力が低下し、現役を引退するスポーツ選手を私達はたくさん見てきました。また有能な外科医であっても年をとれば眼が見えにくくなったり、手が震えたり、また長時間の手術にも耐えにくくなったりします。このような事例を頻繁に見聞きするにつれ、私達は「年をとれば機能が低下する、衰える」と思うようになっています。「年をとれば衰える。それは哀れだ。」このような思いが私達日本人の中には共通して存在しているように思います。しかし「生涯人間発達学」という分野が心理学にあることを最近知りました。非常に新鮮な思いがしたため、関連の書籍を何冊か読んでみました。
人の発達と言えば「子供の発達」を連想します。子供は年齢と共に身体が大きくなり、能力も向上していきます。そして大人になれば発達は止まると考える人が多いのですが、中高年の人達を調査した結果、人は分野によっては何歳になっても発達するということがわかってきました。年をとれば体力は衰えますが、人は体力ばかりではありません。知性があります。
生産効率や速さを重要視する現代において、そのような観点で中高年の人を評価すれば、劣っていると判断されても仕方はありません。しかし人を評価するとき、どのような尺度、物差しを使用するかによって結果は異なります。それに気づかなければならなかったのです。「年をとれば衰える」という発想は、どのような視点で人を見るかということを抜きにした、極めて無体な考えであることに気づきます。
それでは中高年になっても発達する知性とはどのようなものなのでしょうか?成人の知性を観察して流動性能力と結晶性能力とに分別したのは、アメリカの心理学者キャッテルでした。「流動性能力」とはものごとを記憶したり、計算したりする能力です。流動性の原語はFluid(液体)ですが、流動性という和訳が少しわかりにくいですね。これは新しい知識を学習したり、感覚機能、運動機能をも働かせて身につけたりする能力をいいます。一方、「結晶性能力」とは判断力や物事をまとめ上げる総合力などで、経験により磨きがかかってくる能力を言います。「結晶性能力」という用語は知性を凝集したような印象の表現であり、わかりやすいです。左図のように、流動性能力は思春期にピークとなり加齢に伴って衰えていきますが、結晶性能力は加齢に影響を受けず、知識と経験とを積み重ねることによってさらに向上していくことがわかっています。
この結晶性能力に関して次のような思い出があります。私は以前、地域の自治会長を引き受けたことがあります。その当時、町内に大きなトラブルが発生し自治会長のなり手がなくなりました。私はその年度の自治会役員の一人であり自治会を解散してしまうわけにもいかず、米国留学を控えていたため出発までの半年間だけなら、という約束で就任しました。住民集会での議事運営は困難を窮めると予想されたため、議長には理事の一人で際立った分析力をもつ70がらみのAさんに依頼しました。住民集会では予想通り議論が紛糾しましたが、Aさんの巧みな議事運営でなんとか話しが進んでいきました。しかしこれ以上どうにもならないと感じ始めたとき、「ここで10分間の休憩をとりましょう」と議長提案がありました。住民は三々五々集まって談笑していましたが、この休憩が非常にタイムリーな合の手となり、再開後には冷静な議論が展開され、一件落着となりました。
後刻、なぜあのような絶妙のタイミングで休憩をとることができたのですかとAさんにお尋ねしたところ、Aさんは国鉄時代に労働争議に関わることが多かった由で「団体交渉などでも当事者達を冷静にさせるためには、適切なタイミングで休憩時間をとれば話しはまとまりやすい。」と教えてくれました。これこそ「経験に裏打ちされた知性」と当時30代半ばの私は脱帽しました。改めていうまでもなく、このAさんには結晶性能力が極めて高く形成されていたのです。
ところで、このような結晶性能力はただ単に年を重ねるだけでは身に付くものではありません。そのための大事なポイントはエキスパート(その道の専門家)になることです。どのような分野であれ、エキスパートになれば結晶性能力が蓄積され、それの乏しい若い人達を指導することができます。体力やスピードで勝負する分野ではありません。「いぶし銀のようだ」とか「長老」と呼ばれるような境地を目指すことだと思います。クリニックに通う方の中にも80歳前後でそのような方をお見かけします。剣道の達人で地域のこども達に剣道を教え続けた人、長年の阿波踊りの経験から阿波踊りの生き字引のようになった人、百人一首を通して子供達を指導してきた方、古文書解明の大家、木彫りの第一人者等々…こういった人達はそれぞれの分野でエキスパートとして活動し、非常にイキイキとされています。衰えたという印象はありません。またそういった特技を同世代の中だけで共有して楽しむのではなく、若い世代にも伝えることで、世代を超えて評価されています。世代間伝達ぶりがお見事です。
さて、現代社会では若さや速さ、効率の良さが尊ばれています。テレビ等のマスコミではその傾向が顕著です。テレビを見続けることによって、そのような思いが私達の心に重層的に刷り込まれているように感じます。以前からこのような風潮を苦々しく思っていましたが今般「生涯人間発達学」に出会いました。今回その概要を紹介しましたが、「生涯の発達」ということは「結晶性能力」を蓄積するだけではなく、次のようなことをも意味するのではないかと私は思うのです。
孔子は論語(為政編)の中で次のように述べています「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳[に]従う。七十にして心の欲するところに従って、矩を踰(こ)えず。」
つまり年齢に応じて身につけるべき知性があり、それを順々に身につけていくことを「人の生涯をかけた発達」というのではないでしょうか。若い人の新鮮さ、速さ、効率の良さを、年がいっても同じように保持しようとするのではなく、それは若い人達に任せて、加齢に伴って身につけるべき知性を確実に身につけていくということが「生涯の人間発達」ではないかと考えます。そしてそこに価値を認める社会になれば、加齢による見た目の機能低下が馬鹿にされたり蔑まされたりすることもなく、堂々と年を重ねていくことができます。
生涯人間発達学に関する私の結論が独りよがりであったり、牽強附会であったりするかもしれません。もう少し詳しくこの分野を学んでみたいと思われる方にお勧めできる本は「生涯発達の心理学」高橋恵子・波多野誼余夫共著(岩波新書)です。この本の200ページに、私の結論を超越したような一節があり、思わず襟を正しました。引用してみます。
『(加齢により)すっかり依存的な存在になったとしても、それでも人は価値があることを、我々の人間観の中にしっかり入れておく必要がある。老いて有能さをほとんど残していない状態になったとしても、本人や家族の責任ではなく、人間という種は、だれでもそのようになる可能性をもつ「存在」であるという認識を確立しておくべきであろう。これは「人間の尊厳」の問題である。…なぜ尊いのかは議論する種類の問題ではない。これはいわば、我々の倫理観の宣言であり、「決心」であろう。』
【坂東】
参考書籍:生涯人間発達学(上田礼子)結晶知能革命(佐藤眞一)生涯人間発達論(服部祥子)