藍色の風 第40号目次
忘れること、覚えておくこと
以前、日本の有名な男性アスリートが当クリニックを受診されたことがあります。世界選手権で活躍された方で、現在は引退されています。動悸がするという訴えでしたが、一般的な診察では特別な異常はなく、胸部のレントゲン写真でも問題はありませんでした。安静時の心電図では確かに脈の乱れがあるのですが、治療の対象になるような危険なものではありませんでした。
「何か心配事はありませんか?」とお尋ねしましたがなかなか心の襞を打ち明けることはありません。「夜は良く眠られますか?」とお尋ねすると「眠るのが怖くて、なかなか寝付けない」といわれます。どうして眠るのが怖いのですかとさらに尋ねてみると「明日の朝、起きたらまたあの厳しい練習をしなければならないのかと思うと、眠るのが怖いのです」といわれました。
PTSDという用語があります。心的外傷後ストレス障害と呼びますが、災害、事故、悲惨な体験などで心に強い衝撃を受けるとそれを忘れることができず、そのことから身体的な症状が出現することを指します。このアスリートにも循環器的な治療が必要な状態ではないと説明し、地元の心療内科で相談されるよう勧めました。人には、忘れたくても忘れられないことがあると、改めて感じました。
さて忘れてはならないのに、忘れてしまうことがあります。昨年の東日本大震災のことを「未曾有」と表現する人がたくさんいますが、私は違和感を抱いていました。未曾有とは「それに類する事件などが今までに一度もなかったこと」を意味します。原子力発電所の大災害は日本で初めてですが、三陸地方を襲い甚大な被害をもたらした大津波としては昭和三陸津波、明治三陸津波、慶長津波、貞観津波といったものが挙げられます。こられの津波も三陸地方には惨憺たる被害を与えており、震災という面では今回の東日本大震災は、決して「未曾有」ではありません。私達は簡単に過去のことを忘れてしまう性癖がありそうです。
マスメディアや評論家が安易に「未曾有」という用語を使う理由を考えてみました。人間の記憶と時間の関係、また失敗の記憶消滅の法則性といった現象を、畑村洋太郎さんが説明しています。右上図は個人や組織、地域、社会また文化が、どの程度の減衰曲線で記憶を失っていくかということを図式化したものです。右下図は失敗や事故、災害などがどのように記憶から消失していくかを示しています。こういった図を見ると、昨年の東日本大震災を「未曾有」と軽率に表現してしまう理由がわかります。私達が過去の失敗や災害をきちんと後世に伝えていないのです。
日本の各所に津波の警告碑や供養碑が建立されています。海部郡美波町東由岐にも正平16年(1361年)に発生した南海大地震の供養碑が1380年に建立されています。歴史的には非常に価値の高いものですが、それが現代に生きる人々に震災への有効な警告サインを送っているかといえば、残念ながらそうではないでしょう。
震災の警告をどのような手段で子孫に伝えるかを、考えなければなりません。その一つの方法は3月11日を「国民が震災を考え、防災に備える日」として休日にすることだと思います。防災の日としては9月1日の関東大震災発災日が既にありますが休日ではなく、残念ながら一部の人達だけの日になっています。地震、津波、原子力災害と、三大災害が重なったこの記憶を保持するために、3月11日を休日とするよう提案します。その日にはこれまでの震災で亡くなった方々の慰霊・供養を行い、自宅・職場・地域で防災対策を行い、悲惨な災害で亡くなる人が一人でも少なくするよう行動すればと思います。1年に二回、3月と9月に震災・防災を考える日があれば、国民の印象に残りやすいでしょう。
また、今回の東日本大震災で被災した市町村のとある首長が「地震や津波のイメージを伴わない避難訓練は、効果的ではなかった」と発言していました。おきまりの避難訓練ではなく、襲ってくる相手のことを知って対応策を考える必要があるのでしょう。しかし発災前に巨大地震や津波を体験することはできず、できるだけ実際の状況に添った訓練することが求められます。そのような方法を探していた時、ある講演会冒頭で、大津波によって町が飲み込まれていく様子がスクリーンに映し出されました。大画面で迫る津波のすさまじさに圧倒されました。これでも実体験にはほど遠いでしょうが、このような動画を子孫に伝えていくことが、震災のイメージを伝えるために重要ではないかと思います。
インターネットでも短時間の震災動画はありますが、あるテレビ番組で岩手県大船渡市の「さいとう製菓」が作成したDVDを紹介していました。それを注文して見てみましたが、家々を押し流す津波の威力は私の想像を超えるものでした。写真では伝わらない大津波の破壊力が、まざまざと伝わってきます。唖然、呆然という言葉が適切です。大地震・大津波の破壊力のすさまじさを間接的にでも体験して対応策を考え、子孫にその恐ろしさを伝えなければならないと思います。さいとう製菓に依頼し、30枚のDVDを当クリニックに用意しました。ご希望の方に定価(1枚千円)でお分けいたします。
最後に、寺田寅彦の「津波と人間」の一部を引用します。「こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津波の周期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害ではなく、五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれができない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記憶を忘れないように努力するより外はないであろう。」
東日本大震災の記憶を上手に伝え、私達の子孫が大震災で辛酸を舐めないよう、工夫をしていく必要があると思います。
【坂東】