「老いた」ことは「老いられた」こと

診察を続ける楽しみの一つは人間の老いの経過をつぶさに観察できることです。
30年近く続けて拝見している方もおられ心臓の機能のみではなく、体の他の機能が加齢とともにどのように変化していくか、手に取るようにわかります。自分でも自覚できる老いから、まだまだ分からない老いまでいろいろです。

例えば、人は年を重ねるに連れて尿の濃縮力が低下していきます。若い頃に比べて私の尿の色も薄くなったと感じます。また夏の虫がジージーと鳴いているよう耳鳴りも私には聞こえます。全くの静寂が私から消えてしまいました。診察時に耳鳴りを訴える方も多いのですが、私にもそれがあると伝えると驚かれます。加齢に伴い高音が聞こえにくくなることがあります。体温計の計測完了音である「ピッピッ」という音は私には聞こえません。私も高音領域の聴力が低下してきており、これが耳鳴りの原因になるようです。

まだ白内障の傾向はありませんが、白内障の手術を終えた患者さんに、手術前後で見え方にどのような差があるのか、よく尋ねます。「自分の顔のしわに驚いた。」「視野が明るくなった。」「妻の老け顔に驚いた。」など、いろいろな感想を述べられます。将来自分の視野がどのように変化していくのだろうと今から楽しみにしています。

さて、避けることのできないこのような人間の老いに対して、「年などとるものではない」と言われる患者さんにもよく出会います。そんなとき、「失われた機能を嘆くより、残っている機能を有り難く思って大事にしませんか?」と話します。少し生意気かもしれませんが、このように話すには訳があります。今から40年程前のことです。

城南高校に入学した時、クラブ活動を何にするか迷いました。音楽部はブラスバンド形式であり、チェロはなかったため断念しました。少年野球で慣らしたこともあり、硬式野球部なら大丈夫だろうと思い入部しました。当時の城南は進学校として有名でしたが、野球部は甲子園を狙えるような強豪校ではありませんでした。しかし練習は毎日あり、練習試合で県内のあちこちに出かけました。高校2年生の秋の大会では強豪の鳴門市工に7−5で破れはしたものの、もう一歩のところまで追いつめました。この大会を最後に、受験勉強に切り替えましたが、この時の主将が松茂町から通っていた同級生のY君でした。

雨の日も風の日もY君は吉野川橋を渡って松茂から城南まで自転車で通っていました。彼がセンターで私がレフト。仲のいい外野手同士でした。「もうこのくらいで練習やめよう」というチームメイトの声があっても「もうちょっと頑張ってみようや」といって上手に引っ張っていく主将でした。

Y君は教師になるのが夢であり教育学で有名な中国地方の国立大学に現役で進学しました。しかし入学して間もなく、通学途上の公園で死亡しているところを発見されたのです。風邪か何かに罹患し、病院で薬をもらっていたとのことでした。お葬式には間に合わず、後日球友と一緒にお焼香に伺いましたが、Y君の夭折には残念というよりその理不尽さゆえ、腹立たしさが先に立ちました。生きていればすばらしい教師になり、徳島県で活躍していたことと思います。

私は自分の老いを自覚するたびに、Y君は老いたくても老いることができなかったという思いに至ります。私は髪が白くなり、尿の色も薄くなり、耳鳴りも始まりました。少しずつ老いの境地に足を踏み入れています。しかし、Y君は老いたくても老いることができませんでした。老いを自覚できるということはその年まで生きることができた証拠です。私は体を元気に維持できるよう工夫はしていますが、老いることそのものを悔やみはしません。Y君が体験できなかった老いを、老いることができていると受け止め、自分の老いをゆったりとかみしめるようにして毎日を過ごしています。

因みに、当クリニックに通院される最高齢の方は97歳の女性です。その方の診察で、明治時代から脈々と打ち続けているその健気な心音を聞くといつも感激します。元気に老いたいものです。

【坂東】